翌朝、渋滞を避けて早めに家を出た。
この体で長いドライブをすることに不安はあったけれど、行かなくてはいけない気がして車を走らせた。 以前来たときは綺麗な緑に覆われていたのに、今は枯れ葉が舞っている。 なんだか寂しいわねと少し感傷的な気分になりながら、私は診療所への道を進んだ。 「こんにちは」まだ診察前なのは分っていて、玄関から声をかける。
「はーい」
出てきた看護師の、どなたですかと怪しむような視線。
「私、山形と言います。公、いえ、宮城先生はいらっしゃいますか?」
「先生ー」看護師に呼ばれ、公が奧の診察室から出てきた。
「え、お前」
やっぱり、驚かれた。
何も言わずにやって来たのだから、当然だろう。「お知り合いですか?」
「同僚です」看護師に聞かれても、私はそう答えるしかなかった。
***
公が診察の間は、院長室で休ませてもらった。
環境が変わって気が紛れたのか、今日は吐き気がしない。 来客用のソファーにもたれかかりながら、時々聞こえる公の声に耳を澄ませた。「どうかした?」
昼前になり戻ってきた公が、なぜか不機嫌な私に渋い顔をする。
「別に。どうもしないけど・・・」
「話があるんだろ」こんな平日に前触れもなく訪れれば、何かあったと思うに決まっている。
「実は・・・赤ちゃんができたの」
私は、核心のみをはっきりと伝えた。
「そうか」
驚く様子も見せず、公は私をそっと抱きしめた。
「私、迷ってるの」
正直、生んで育てる自信なんてない。
「俺は、どんな結論も受け入れる」
男ってずるい。
決められないからここにいるのに・・・「妊娠も出産も私ばっかり。私だって、医師としてのキャリアを積みたいのに」
公の前で歯止めがきかなくなって、甘えが出てしまった。
送っていく車の中で、紅羽は眠ってしまった。妊娠するとホルモンのバランスが変わって眠たくなることもあるらしいし、つわりも体調の変化も人それぞれ。症状も、一概にこうだと言えるものはない。まあ、命を1つはぐくもうと言うんだからそれなりに体の負担は避けられないのだろう。それにしても、どうしたものだか。こいつが母親になるなんて、想像もできない。いつも真っ直ぐで、正直で、それでいて不器用で、心配で目を離すことができなかった。最初は妹を見るように見ていたのに、いつの間にか手を出していた。近付けば近づくほど彼女の側を離れられなくなって、お互いを恋人と認識するようになった。二人の関係を隠したつもりはない。一緒に手をつなぎ、堂々と街を歩きたかった。でも、余計なことを口にしない紅羽にあわせているうちに、秘密の交際のようになってしまった。それが・・・子供ができるなんて。「うぅんー」助手席から聞こえてくる紅羽の声に幸せを感じる。こんな時間をずっと過ごせたら、いいだろうなあ。「かわいい顔して、強情な奴だ」***俺の両親はごく普通の会社員と専業主婦だった。小さなアパートに4人暮らしで、俺の上に姉がいる。体の弱い母は働きに出ることもできず、決して裕福ではなかった。父は寡黙で真面目な仕事人間。母は、元々金持ちの娘だったらしい。駆け落ちして一緒になったと大きくなってから聞かされた。そんな母も、俺が13歳、姉貴が15歳の時に病気で死んでしまった。母の訃報を聞いて駆けつけた祖父は「お前が娘を殺したんだ」と父に罵声を浴びせた。葬儀の後、俺と姉貴は母の実家に連れて行かれたが、父は止めなかった。一生懸命頑張りすぎた父は、母が亡くなる前から心を壊してしまっていて、病院を出たり入ったりの暮らしだった。そんな父に子供を育てられるはずもなく、どうしようもない選択だったのだろう。3年後、父は病院で亡くなった。金持ちの家とは言えすで
ガチャ。すっかり寝てしまった紅羽を抱えて玄関を開けると、福井翼が顔を出した。「おかえりなさい」「ただいま」俺の家でもないのに、自然と口を出た。「寝たんですか?」「ああ」「先生も大変ですね」「まあな」多感な思春期を他人の家ですごしたせいで、俺は外面のいい人間になってしまった。いつ笑顔でニコニコしているから年寄りには好かれるし、愛想が良ければ仕事もやりやすい。そんな宮城公を自分で作り上げた。しかし、こいつに関わる時でだけ本性が出てしまうんだ。よほど疲れていたのか、部屋まで運びベットに寝かせても紅羽は起きなかった。その後キッチンに入り、冷蔵庫を空けてみると、中身は水と、ビールと、卵が数個だけ。「相変わらずの食生活か」とてもじゃないが、妊婦の、いや女性の家とは思えない。***「荷物、置きますね」玄関に置いたままだった荷物を、翼が運んできた。「ああ、すまないな。ビール飲むか?」「ええ、いただきます」ダイニングに座り、つまみもなしでビールを空けた。「寝ましたか?」「ああ。人の気も知らずに夢の中だ」「食べれてなかったし、眠れてなかったし、最近辛そうでしたから」ふーん。こいつは俺よりも紅羽のことを知ってる訳か。「悪いが、気にかけてやってくれ」色々と思う所はあるが、やはり頼れるのはこいつだけだ。「わかりました。で、どうする気ですか?」翼の探るような視線。「それは、あいつが決めることだ」人の言うことを素直に聞く女じゃない。「先生はどうしたいんですか?」それでも翼は食い下がる。「俺は・・・ポケットにしまっておきたい」「はあ?」やはり、唖然とされた。しかし、これが本心だ。できることならこのまま連れて帰りたいが、できない
私は病気療養の名目で2週間の休みをもらい、このままでいけば休み明けから次の勤務先へ異動になる予定だ。妊娠の事は秘密の為、周りから見れば異動が嫌で駄駄をこねている様に見えるけれど、今は仕方ない。そんな事にかまっていられないから、ありがたく静養と異動の準備をさせてもらおうと思う。とはいえ、勤務先は隣町のため住居の引っ越しは不要で、これまで通り翼との同居は継続する。長期休暇のお陰で、つわりの為に弱った体をゆっくり休ませることができた。時間を気にすることもなくゴロゴロとベットで過ごし、病院にも行き、母子手帳ももらった。そして、自分自身と向き合った。少しずつではあるけれど、あれだけ悩んでいた妊娠も、出産も、自然と受け入れられるようになってきた。産婦人科は、自宅から少し離れた小さなクリニック。知り合いに会わないことを第一条件に選んだ。「独身ですね。生みますか?」「はい」40過ぎの女医さんに聞かれ、はっきりと答えられた。普段小さな子供達を患者として診ている私にとって、生まれてきてくれる命は奇跡でしかない。その命を絶つなんて・・・考えられない。もちろん、そうなると現実的な問題は出てくるが、幸い私の周りには子育てしてる女医さんも多い。私にだってできなくはないと、思えてきた。***日がたつにつれ、つわりにも慣れてきた。そんな時、私は体調のいい日を見計らって久しぶりに実家へ帰省した。私の生まれ育ったのは、隣の県。今の家からは電車で2時間の距離で、のどかな田園風景が広がる田舎町だ。うーん、懐かしい。ここに帰るのは1年ぶりかな。そんなに遠いわけではないけれど、つい足が遠のいていた。「お帰り、紅羽」「ただいま」母が駅まで出迎えに来てくれた。「父さんは?」中学教師の母さんは平日仕事のはずだから、今日は父さんが迎えに来てくれると思っていた。「お父さん、急に葬儀が入ったのよ」
本堂に向かうと父がすでに座っていて、母さんも後ろから入ってきた。「紅羽、何か言うことはないか?」 広い本堂の中に響く父の声。「勤務先を異動になりました」やはり、本題はなかなか口にできなくて、当たり障りのないことを言ってしまった。「いつからなの?」母の声が後ろから聞こえ、父はジーッと私を見ている。「来月から、隣町の市立病院に行くの」 「随分中途半端な時期ね」 「うん。部長ともめて・・・とばされてしまった」 「まあ」 母が驚いている。でも、そのことを咎めようとはしない。 子供の頃から、母さんはいつも私の味方だったから、あまり叱られた覚えがない。 友達の家では、『普段口うるさく注意するのはお母さんで、お父さんは何も言わない』よくそんな話を聞いたけれど、我が家は違っていた。 叱るのはいつも父さんの役目だった。「それだけか?」父の顔が険しい。 きっと、父も母も気づいている。 もう、ごまかすことはできないんだ。「赤ちゃんが、できました」 「父親は?」 「・・・」 言えない。「紅羽、こっちに帰ってきなさい」 え? 「1人で子供を育てられるはずないだろう」 「・・・」 「育児をなめるな」 「・・・」父と母は実の子供には恵まれなかったが、私を育ててくれた。 色んな思いや、苦労があったのだと思う。 だからこそ、「妊娠してしまった」と言った私に怒っているのだ。「どうやって子供を育てますってビジョンがないなら、帰ってきなさい。いい加減な気持ちで親になろうなんて、父さんは許さない。いいね」 そう言ったきり父さんは席を立った。住職であり元教師の父の言葉は重たくて、今の私には反論できなかった。「子育ては紅羽が思うよりも大変よ。ちゃんと父さんを納得させられないなら、帰ってきなさい」 「母さん・・・
実家に戻って数日、体調も良くて穏やかに過ごしていた。正直、仕事のことは頭になかった。そんなとき、突然鳴ったスマホの着信。時刻は夜の9時。何だろうと確認すると夏美からの着信で、珍しいなと思いながらすごくイヤな予感がした。「もしもし」「山形先生?」えっ?夏美がこんな呼び方をするのは仕事の時。って事は、誰かが急変?「どうしたの?」幾分自分の声が緊張しているのがわかる。「唯ちゃんが急変した」「嘘」「本当よ。あなた、月末まではこっちの病院に席があるんだったわよね?」「ええ」だったら来なさいと、夏美は言っている。私にも躊躇いはなかった。「少し時間はかかるけれど、向かうから」「ええ、待ってる」今から向かっても間に合うかどうかはわからないけれど、とにかく行こう。夏美からの電話を切ってから、私は身支度を始めた。駅まで行って電車があるか確認して、もしダメならタクシーを拾おう。こんな時間に黙って帰るわけにもいかず、私は両親の部屋をたずねた。「ごめん、受け持ちの患者が急変らしくて、一旦帰るわ」荷物を手に声をかけると、なぜか父が立ち上がった。「送っていく」「でも・・・」「お前車で来ていないんだろう?」それはそうだけれど。「無理したらダメよ。1人の体じゃないんだから」母にも言われ、素直に送ってもらうことにした。***結局父さんの車に乗せられ、家を出た。最初は駅まで行くのかなと思っていたが、車はそのまま高速へ。「駅で電車を探すのに」「この時間じゃあるかわからんだろう」「でも・・・」「いいんだ。着くまで寝てろ」私は、無性に胸が熱くなった。その後も、無言の車内。目を閉じても眠ることはできず、代わり映えのしない車窓を眺めて過ごした。
大学の時の担当教授に『お前、子供は好きか』と聞かれ、『いいえ』と答えた。すると、『じゃあ小児科に行け』と言われ驚いた。『意地悪ですか?』と返すと『違う。子供好きに小児科医は向かない。お前みたいな奴が小児科にはいいんだ』と。なぜだろうと首をかしげると、『小児科は子供が亡くなっていくところを見なくちゃいけない』と言われ納得した。ああ、なるほど。それを聞いて、私は小児科を希望した。「紅羽」「夏美、遅くなってごめん」「さっき亡くなったわ」「そう」やっぱり間に合わなかったか。NICUに入ると、小さなベットを何人もの大人が囲んでいた。「山形先生」唯ちゃんのお母さんが、駆けよって私の手を取った。ゆっくり歩み寄り、見えてきたのはベットの上で眠っている唯ちゃんの、2歳の誕生日を迎えたはずなのにとっても小さな体。いつもは何本もの管でつながれ機械の音がしているのに、今はすべて外されて安らかな顔だ。「お世話になりました」涙を流しお父さんがお礼を言っている。結衣ちゃんを囲む看護師達の目が、みなウルウルとしている。でも、私はここでは泣かない。医者は命を預かるんだ。『患者は医者を頼っているんだから、絶対に泣くな』研修医時代にそう教えられた。だから、私は患者の前では涙を見せない。***ご両親や今まで関わってきた病院スタッフにたっぷり抱っこしてもらった後、唯ちゃんは生まれて初めて病院を出た。私は、寂しさがこみ上げた。たった2年の短い命。病院から出ることもできず、痛いこともいっぱいされて、頑張って生きた人生。唯ちゃんの生きた時間って何だったんだろうと、自分が親になろうとしている今だからこそ思いが募ってしまう。「紅羽、帰るの?」「うん。父さんが車で待っているから」「ふーん」夏美が何か言いたそうにしている。辞令が出た後体調不良でずっと休んでいたから、きっと言いたいことも聞
「カンパーイ」 盛り上がる店内。ここは最近評判のレストラン。 なかなか予約が取れないって噂なのに、誰かがコネを使ったのね。「おーい、ビールおかわり」 「こっちはハイボール」 「すいませーん、注文お願いしまーす」色んな所から声が上がる「はーい、お待ちください」店員さんも忙しそう。 そんな中、相変わらず大騒ぎしている若者達は一気飲みや訳のわからないゲームまで。 パッと見は、大学生にしか見えないけれど・・・「これでも医者なのよねー」 「あんたもね」すぐ隣から呆れた声が聞こえてきたから、私も次々とグラスを空けている隣の美女、夏美に突っ込みを入れた。「そういう紅羽(くれは)も、顔が真っ赤よ」自分は全く顔に出さないからって、夏美が笑ってる。「夏美とは違うの。一体どれだけ強いの」私だってお酒が弱い方ではないけれど、夏美が強すぎるのだ。 勤務後、夕方7時から始まった飲み会はすでに2時間以上がたち、みんなそれなりに酔っ払ってきている。 当然、私も夏美もかなり飲んでいるのだが・・・。***私、山形紅羽(やまがたくれは)は27歳の小児科医。 この春やっと研修医の肩書きがとれて、医師として歩き出したばかり。 今日は同じ大学の同期で、付属病院に就職したメンバーとの飲み会。 夏美は大学の同期で、私と同じ小児科医。 本当はお金持ち開業医の娘なのに、チョー現実主義者。 今だって、「もったいないから、ほら飲みなさい」と、良い所のお嬢さんとは思えない発言を繰り返している。「ほんと、黙っていれば美人なのにね」 「紅羽、やかましい」あら、聞こえてた。「こら紅羽、飲み過ぎだぞ」今度は、どこからともなく現れた翼が注意する。「はいはい、分ってます」福井翼(ふくいつばさ)は大学からの同期。 同じ病院の救命医として勤務している。 見た目は雑誌から飛び出てきたような、THE王子様。 顔が良くて、頭が良く、それで性格の良い奴ならモテないはずがない訳で、当然のように学生時代からかわいそうなくらい目立っていた。「飲み過ぎるなよ。介抱なんてごめんだからな」 耳元に口を寄せ、翼が小声でささやく。ッたく、不必要なまでにいい男。 ここまでくると、嫌みよね。「分っているわよ。自分の足でちゃんと帰ります。ご心配な
「ただいま」家に帰り、自分の部屋のリビングで、ソファーに倒れ込む。「おーい、酔い覚まし飲めよ」 玄関から翼の声がする。「はーい」私は冷蔵庫から翼のお母さんが送ってくれた漢方を取り出した。 うわー、これ苦手なのよね。 でも、明日の勤務のことを考えれば、ありがたいと思っていただきます。ゴックン。 うわ、やっぱり苦っ。「なあ紅羽、お前明日日勤だろー」またまた階段下から大きな声。 ッたく、うるさい。 でも、勝手に入ってこないのが翼だ。 あくまでもシェアハウスなんだから、必要以上に干渉したりはしない。「そうよ。だから寝るの」 「母さんがパンを買ってきてるから、食えよ」へ?言われてドアを開け、2階に上がったところにある踊り場スペースを見ると、紙袋にぎっしり入ったパンが置かれていた。「ありがとう、いただきます。お母さんにお礼言ってね」 「ああ、おやすみ」 「おやすみなさい」いつもありがとうございます。 お母さんは誰が食べているか知らないんだろうけれど・・・ 申し訳ないようで、とってもありがたい。***世間では、とは言っても同期や仲のいい友人の親しいごく一部だけれど、私たちが付き合っていると思っている。 飲み会も一緒に出かけるし、仕事で困ったときにはやはり翼に相談してしまうから、周囲から見れば私たちは恋人同士に見えるんだろう。 でも、違うんだなあ。 本当は、翼の女よけ。それだけの存在でしかない。 世間の常識的にこの関係が正しいのかどうかは別にして、私も翼も今の状態に満足している。 でなければ、大学時代から数えて7年もこんな生活を続けたりはしない。うーん、午後11時か。 ほどよく回ったお酒が気持ちいい。 これで明日が元気なら文句無しなんだけれど・・・ピコン 『ちゃんと帰ったか?』 それは毎日この時間にやってくるメッセージ。 私はイエスのスタンプを返信した。『明日勤務だろ、早く寝るんだぞ』 『分っています』 『ならいい。おやすみ』 『おやすみなさい』これが、毎晩の日課。 実は私には、付き合って2年になる彼がいるのだ。
大学の時の担当教授に『お前、子供は好きか』と聞かれ、『いいえ』と答えた。すると、『じゃあ小児科に行け』と言われ驚いた。『意地悪ですか?』と返すと『違う。子供好きに小児科医は向かない。お前みたいな奴が小児科にはいいんだ』と。なぜだろうと首をかしげると、『小児科は子供が亡くなっていくところを見なくちゃいけない』と言われ納得した。ああ、なるほど。それを聞いて、私は小児科を希望した。「紅羽」「夏美、遅くなってごめん」「さっき亡くなったわ」「そう」やっぱり間に合わなかったか。NICUに入ると、小さなベットを何人もの大人が囲んでいた。「山形先生」唯ちゃんのお母さんが、駆けよって私の手を取った。ゆっくり歩み寄り、見えてきたのはベットの上で眠っている唯ちゃんの、2歳の誕生日を迎えたはずなのにとっても小さな体。いつもは何本もの管でつながれ機械の音がしているのに、今はすべて外されて安らかな顔だ。「お世話になりました」涙を流しお父さんがお礼を言っている。結衣ちゃんを囲む看護師達の目が、みなウルウルとしている。でも、私はここでは泣かない。医者は命を預かるんだ。『患者は医者を頼っているんだから、絶対に泣くな』研修医時代にそう教えられた。だから、私は患者の前では涙を見せない。***ご両親や今まで関わってきた病院スタッフにたっぷり抱っこしてもらった後、唯ちゃんは生まれて初めて病院を出た。私は、寂しさがこみ上げた。たった2年の短い命。病院から出ることもできず、痛いこともいっぱいされて、頑張って生きた人生。唯ちゃんの生きた時間って何だったんだろうと、自分が親になろうとしている今だからこそ思いが募ってしまう。「紅羽、帰るの?」「うん。父さんが車で待っているから」「ふーん」夏美が何か言いたそうにしている。辞令が出た後体調不良でずっと休んでいたから、きっと言いたいことも聞
実家に戻って数日、体調も良くて穏やかに過ごしていた。正直、仕事のことは頭になかった。そんなとき、突然鳴ったスマホの着信。時刻は夜の9時。何だろうと確認すると夏美からの着信で、珍しいなと思いながらすごくイヤな予感がした。「もしもし」「山形先生?」えっ?夏美がこんな呼び方をするのは仕事の時。って事は、誰かが急変?「どうしたの?」幾分自分の声が緊張しているのがわかる。「唯ちゃんが急変した」「嘘」「本当よ。あなた、月末まではこっちの病院に席があるんだったわよね?」「ええ」だったら来なさいと、夏美は言っている。私にも躊躇いはなかった。「少し時間はかかるけれど、向かうから」「ええ、待ってる」今から向かっても間に合うかどうかはわからないけれど、とにかく行こう。夏美からの電話を切ってから、私は身支度を始めた。駅まで行って電車があるか確認して、もしダメならタクシーを拾おう。こんな時間に黙って帰るわけにもいかず、私は両親の部屋をたずねた。「ごめん、受け持ちの患者が急変らしくて、一旦帰るわ」荷物を手に声をかけると、なぜか父が立ち上がった。「送っていく」「でも・・・」「お前車で来ていないんだろう?」それはそうだけれど。「無理したらダメよ。1人の体じゃないんだから」母にも言われ、素直に送ってもらうことにした。***結局父さんの車に乗せられ、家を出た。最初は駅まで行くのかなと思っていたが、車はそのまま高速へ。「駅で電車を探すのに」「この時間じゃあるかわからんだろう」「でも・・・」「いいんだ。着くまで寝てろ」私は、無性に胸が熱くなった。その後も、無言の車内。目を閉じても眠ることはできず、代わり映えのしない車窓を眺めて過ごした。
本堂に向かうと父がすでに座っていて、母さんも後ろから入ってきた。「紅羽、何か言うことはないか?」 広い本堂の中に響く父の声。「勤務先を異動になりました」やはり、本題はなかなか口にできなくて、当たり障りのないことを言ってしまった。「いつからなの?」母の声が後ろから聞こえ、父はジーッと私を見ている。「来月から、隣町の市立病院に行くの」 「随分中途半端な時期ね」 「うん。部長ともめて・・・とばされてしまった」 「まあ」 母が驚いている。でも、そのことを咎めようとはしない。 子供の頃から、母さんはいつも私の味方だったから、あまり叱られた覚えがない。 友達の家では、『普段口うるさく注意するのはお母さんで、お父さんは何も言わない』よくそんな話を聞いたけれど、我が家は違っていた。 叱るのはいつも父さんの役目だった。「それだけか?」父の顔が険しい。 きっと、父も母も気づいている。 もう、ごまかすことはできないんだ。「赤ちゃんが、できました」 「父親は?」 「・・・」 言えない。「紅羽、こっちに帰ってきなさい」 え? 「1人で子供を育てられるはずないだろう」 「・・・」 「育児をなめるな」 「・・・」父と母は実の子供には恵まれなかったが、私を育ててくれた。 色んな思いや、苦労があったのだと思う。 だからこそ、「妊娠してしまった」と言った私に怒っているのだ。「どうやって子供を育てますってビジョンがないなら、帰ってきなさい。いい加減な気持ちで親になろうなんて、父さんは許さない。いいね」 そう言ったきり父さんは席を立った。住職であり元教師の父の言葉は重たくて、今の私には反論できなかった。「子育ては紅羽が思うよりも大変よ。ちゃんと父さんを納得させられないなら、帰ってきなさい」 「母さん・・・
私は病気療養の名目で2週間の休みをもらい、このままでいけば休み明けから次の勤務先へ異動になる予定だ。妊娠の事は秘密の為、周りから見れば異動が嫌で駄駄をこねている様に見えるけれど、今は仕方ない。そんな事にかまっていられないから、ありがたく静養と異動の準備をさせてもらおうと思う。とはいえ、勤務先は隣町のため住居の引っ越しは不要で、これまで通り翼との同居は継続する。長期休暇のお陰で、つわりの為に弱った体をゆっくり休ませることができた。時間を気にすることもなくゴロゴロとベットで過ごし、病院にも行き、母子手帳ももらった。そして、自分自身と向き合った。少しずつではあるけれど、あれだけ悩んでいた妊娠も、出産も、自然と受け入れられるようになってきた。産婦人科は、自宅から少し離れた小さなクリニック。知り合いに会わないことを第一条件に選んだ。「独身ですね。生みますか?」「はい」40過ぎの女医さんに聞かれ、はっきりと答えられた。普段小さな子供達を患者として診ている私にとって、生まれてきてくれる命は奇跡でしかない。その命を絶つなんて・・・考えられない。もちろん、そうなると現実的な問題は出てくるが、幸い私の周りには子育てしてる女医さんも多い。私にだってできなくはないと、思えてきた。***日がたつにつれ、つわりにも慣れてきた。そんな時、私は体調のいい日を見計らって久しぶりに実家へ帰省した。私の生まれ育ったのは、隣の県。今の家からは電車で2時間の距離で、のどかな田園風景が広がる田舎町だ。うーん、懐かしい。ここに帰るのは1年ぶりかな。そんなに遠いわけではないけれど、つい足が遠のいていた。「お帰り、紅羽」「ただいま」母が駅まで出迎えに来てくれた。「父さんは?」中学教師の母さんは平日仕事のはずだから、今日は父さんが迎えに来てくれると思っていた。「お父さん、急に葬儀が入ったのよ」
ガチャ。すっかり寝てしまった紅羽を抱えて玄関を開けると、福井翼が顔を出した。「おかえりなさい」「ただいま」俺の家でもないのに、自然と口を出た。「寝たんですか?」「ああ」「先生も大変ですね」「まあな」多感な思春期を他人の家ですごしたせいで、俺は外面のいい人間になってしまった。いつ笑顔でニコニコしているから年寄りには好かれるし、愛想が良ければ仕事もやりやすい。そんな宮城公を自分で作り上げた。しかし、こいつに関わる時でだけ本性が出てしまうんだ。よほど疲れていたのか、部屋まで運びベットに寝かせても紅羽は起きなかった。その後キッチンに入り、冷蔵庫を空けてみると、中身は水と、ビールと、卵が数個だけ。「相変わらずの食生活か」とてもじゃないが、妊婦の、いや女性の家とは思えない。***「荷物、置きますね」玄関に置いたままだった荷物を、翼が運んできた。「ああ、すまないな。ビール飲むか?」「ええ、いただきます」ダイニングに座り、つまみもなしでビールを空けた。「寝ましたか?」「ああ。人の気も知らずに夢の中だ」「食べれてなかったし、眠れてなかったし、最近辛そうでしたから」ふーん。こいつは俺よりも紅羽のことを知ってる訳か。「悪いが、気にかけてやってくれ」色々と思う所はあるが、やはり頼れるのはこいつだけだ。「わかりました。で、どうする気ですか?」翼の探るような視線。「それは、あいつが決めることだ」人の言うことを素直に聞く女じゃない。「先生はどうしたいんですか?」それでも翼は食い下がる。「俺は・・・ポケットにしまっておきたい」「はあ?」やはり、唖然とされた。しかし、これが本心だ。できることならこのまま連れて帰りたいが、できない
送っていく車の中で、紅羽は眠ってしまった。妊娠するとホルモンのバランスが変わって眠たくなることもあるらしいし、つわりも体調の変化も人それぞれ。症状も、一概にこうだと言えるものはない。まあ、命を1つはぐくもうと言うんだからそれなりに体の負担は避けられないのだろう。それにしても、どうしたものだか。こいつが母親になるなんて、想像もできない。いつも真っ直ぐで、正直で、それでいて不器用で、心配で目を離すことができなかった。最初は妹を見るように見ていたのに、いつの間にか手を出していた。近付けば近づくほど彼女の側を離れられなくなって、お互いを恋人と認識するようになった。二人の関係を隠したつもりはない。一緒に手をつなぎ、堂々と街を歩きたかった。でも、余計なことを口にしない紅羽にあわせているうちに、秘密の交際のようになってしまった。それが・・・子供ができるなんて。「うぅんー」助手席から聞こえてくる紅羽の声に幸せを感じる。こんな時間をずっと過ごせたら、いいだろうなあ。「かわいい顔して、強情な奴だ」***俺の両親はごく普通の会社員と専業主婦だった。小さなアパートに4人暮らしで、俺の上に姉がいる。体の弱い母は働きに出ることもできず、決して裕福ではなかった。父は寡黙で真面目な仕事人間。母は、元々金持ちの娘だったらしい。駆け落ちして一緒になったと大きくなってから聞かされた。そんな母も、俺が13歳、姉貴が15歳の時に病気で死んでしまった。母の訃報を聞いて駆けつけた祖父は「お前が娘を殺したんだ」と父に罵声を浴びせた。葬儀の後、俺と姉貴は母の実家に連れて行かれたが、父は止めなかった。一生懸命頑張りすぎた父は、母が亡くなる前から心を壊してしまっていて、病院を出たり入ったりの暮らしだった。そんな父に子供を育てられるはずもなく、どうしようもない選択だったのだろう。3年後、父は病院で亡くなった。金持ちの家とは言えすで
翌朝、渋滞を避けて早めに家を出た。 この体で長いドライブをすることに不安はあったけれど、行かなくてはいけない気がして車を走らせた。 以前来たときは綺麗な緑に覆われていたのに、今は枯れ葉が舞っている。 なんだか寂しいわねと少し感傷的な気分になりながら、私は診療所への道を進んだ。 「こんにちは」まだ診察前なのは分っていて、玄関から声をかける。「はーい」出てきた看護師の、どなたですかと怪しむような視線。「私、山形と言います。公、いえ、宮城先生はいらっしゃいますか?」 「先生ー」看護師に呼ばれ、公が奧の診察室から出てきた。「え、お前」やっぱり、驚かれた。 何も言わずにやって来たのだから、当然だろう。「お知り合いですか?」 「同僚です」看護師に聞かれても、私はそう答えるしかなかった。***公が診察の間は、院長室で休ませてもらった。 環境が変わって気が紛れたのか、今日は吐き気がしない。 来客用のソファーにもたれかかりながら、時々聞こえる公の声に耳を澄ませた。「どうかした?」昼前になり戻ってきた公が、なぜか不機嫌な私に渋い顔をする。「別に。どうもしないけど・・・」 「話があるんだろ」こんな平日に前触れもなく訪れれば、何かあったと思うに決まっている。「実は・・・赤ちゃんができたの」私は、核心のみをはっきりと伝えた。「そうか」驚く様子も見せず、公は私をそっと抱きしめた。「私、迷ってるの」正直、生んで育てる自信なんてない。「俺は、どんな結論も受け入れる」男ってずるい。 決められないからここにいるのに・・・「妊娠も出産も私ばっかり。私だって、医師としてのキャリアを積みたいのに」公の前で歯止めがきかなくなって、甘えが出てしまった。
「うっ、気持ち悪い」今日も朝から吐き気に襲われる。ペットボトルのミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出し一口含んだが、やはり吐き気は治まらない。ここのところずーっとこの調子で、夏美にも「いい加減に受診しなさい」と毎日言われている。マズイなあ。できれば休みたくないのに、この状態では仕事にならない。「おーい、紅羽。大丈夫か?」階段の下から翼の声がした途端、私は座り込んでしまった。ダダダッと階段を上がる足音。トントン。「入るぞ」返事を待つことなく入ってきた翼が、私を見下ろす。「気持ち悪い」小学校の遠足でバスに酔ったときより酷くて、2日酔いの10倍は辛い。「そんな所にいたら良くならないだろう」冷蔵庫の前に座り込んだ私を、翼が手を差し出して抱えようとする。抵抗する気力もない私は、膝とエチケット袋を抱えたまま翼に寄りかかった。「今日の勤務は無理だな」「・・・うん」この状態では仕事にならないと私にだって分っている。でも・・・先日出た辞令で、私は異動は決まっている。すでに公表になっていて、1か月後には隣町の市立病院へ移らなくてはいけない。異動先も救急外来を持つ総合病院だから、左遷ってわけではない。早いか遅いかの違いで、夏美だって翼だって異動はあるし、いつまでも同じ現場にいられる医者なんてごく一部でしかない。それは分ってはいるけれど・・・***「離島に飛ばされたわけでも、山の中に送り込まれたわけでもないだろう。そんなに落ち込むな」「分ってるわよっ」翼に言われなくたって、転勤は勤務医の宿命なのだから諦めるしかないと頭では理解してる。「仕方ないから、今日は休め」動けない私が仕事に行けるはずもないが、やはり休みたくはない。「今休んだら、駄々をこねているみたいだわ」「言いたい奴には言わせておけ」「・・・うん」
12月。毎年恒例小児科の忘年会は、病院近くのイタリアンレストランで行われた。「今年は随分おしゃれね」隣の席に座った夏美につぶやいてしまった。今まで参加した飲み会と言えば、居酒屋や中華や奮発してお寿司って言うのがほとんどだった。こんな、イタリアンレストランを貸し切っての忘年会なんて始めてだ。「部長のアイデアらしいわ。参加人数も40人を超えているし、若いスタッフも多いから、いいチョイスだと思うわよ」「へー、部長がぁ」確かにおしゃれだから、若者はうれしいよね。「山形先生、食べてますか?偏食かなんだか知らないけれど、しっかり食べて明日からも働いてくださいよ」遠くの席から大きな声で話す部長。フン、分ってます。私の食欲不振は悪化の一途をたどり、最近ではめまいを起こすようになった。自分でもまずいなって思っているのだが、忙しくて受診する暇がない。「先生どうぞ」師長が赤ワインの入ったグラスを差し出した。え?「部長が山形先生にって」思わず見つめると、小さな声で囁いた。「先生、しっかり食べて飲んでください」またまた部長の大きな声。「はい。いただきます」私は立ち上がって部長を見ると、小さく頭を下げた。クソッ。小児科部長め。私の事が気に入らないなら、かまわずに放っておいてくれればいいのに。わざわざ話しかけてくるから、時々私のことが好きなのかしらと誤解しそうになる。まあ、そうでないのは間違いないけれどね。「紅羽、顔が怖い」グラスのワインを持ったままの私に夏美の突っ込み。分っていても笑って受け流せない私は、静かにグラスを置いた。部長からのワインだから飲まないのではない。私は本当に体調が悪いのだ。そのうちに、あちこちのテーブルで酔っ払いが大量発生しだした。***「もー、部長。ダメですよ」